結局人間は外見である。性格とか趣味とか内面の魅力も認めるし、そこに惚れることだって当然ある。けど外見が優れているとなんでも様になるし自然と説得力が出てしまうのだ。という気がする。ここでわたしが言う美しいとは、顔や体型がどれだけバランスよく配置されているか、が基準になっている。

これを書いている途中に、中学のとき同じ英会話塾に通っていた先輩を大学の喫煙所で見つけてしまった。素朴で裏表のなさそうな明るい女の子だったのでなんとなくショックだった。その衝撃や気まずさとは関係なく、気づかないふりをしています。全く持って私のみの問題である。

とにかく外見の良い異性が格好つけたことばかりして実際に格好がついてしまっているのを見ると甚だしい敗北感を感じる。やっていることは素晴らしくダサいのに。クラブでちょけている友人をインスタのストーリーに上げたりとか、一人称がワイだったりとか。そんな異性を見ていると私もガリガリの美しい奇抜な女になりたいと思ってしまう。かつての友人は「手に入らないものを求めてもそれは実現されないし、より多くを失うことになる」「外見が美しくなかったら優しくしてくれないような人間に優しくされるようになって嬉しいのか?」などの正しすぎる意見をくれたけど、正論はときにただの理想論に成り下がる。また別の友人は「外見の美醜は別として、美しくなろうとしない異性は美しくないと思う」と言っていた。前者は私のような手に入らないものを無理に求めているお終いの人間の気持ちに寄り添ってくれていて、半主観的という印象を受ける。後者は客観的な一意見で、私の考えはそのふたつの間で立ち位置を決めかねている。困ったものだ。瞼に折り目をつけたくらいじゃ人間美しくはなれないのだ。外見についてこんなにも苦しい思いをするくらいなら、職人によって磨き上げられた完璧な球体や、隕石のかけらや、小さくて汚いライブハウスでロックバンドのボーカルに踏まれまくっているあの手前のスピーカー(正式名称はわからない。私は無知)になってしまいたい。ロックバンドのボーカルに踏まれたい。合法ドラッグでラリまくってどうにかなってしまいたい。休憩。人生の休憩をしましょう。突き詰めたら死なんて休憩みたいなものだ。睡眠と死は似ているし、疲れている人間はたいてい休憩として睡眠をする。眠りたい。

 

この時期の女子大生全員同じサンダル履いてるな