1966

グラスは水滴まみれになっている。わたしはその水滴を拭いて、氷と焼酎を足し、ソーダを注いで8分の1のレモンを入れる。小さな娘が作ってくれた心温まる家族愛レモンサワーを前にしても、パパの批判は止まらない。顔を紅潮させて天皇陛下万歳と叫ぶ。わたしは何も分かっていないけど、うんうんとかそうだよねとかってずっと言っている。おばあちゃんは何も聞こえないふりをしてテレビの昭和歌謡特集を一心に見つめている。パパに対抗するおじいちゃんは元警視庁勤務特有の冷静さを崩さずに、いやそれは違う、そんなやり方はアメリカ的だ、と言う。わたしの家では「アメリカ的」というのはマイナスの形容詞で、情けをかけない、義理人情のない、弱者を見捨てる、という意味だ。ふたりの白熱した議論を終わらせられるものは時間以外になかった。おれは寝る、と言っておじいちゃんが寝室に行っても、パパはわたしを相手に自分の正当性を主張し続けた。

 

わたしが塾をさぼろうとしたとき、パパはよくわたしを蹴飛ばした。自分が行きたいと言ったのに、休むのは筋が通っていない、そういうのは、左がかった連中のすることだ、と言われた。「左がかった」と言うのは左翼的であるという意味で、もちろんこれもマイナスの形容詞だ。でもパパは、(今考えてみれば)左翼的思想そのものを批判していたのではなく、左翼の人たちの自分勝手な行いばかりする、という傾向を批判していただけだった。パパにとっての敵は社会主義共産主義ではなくご都合主義だったというわけだ。

 

以上のように、幼少期のわたしはパパが怖かった。もちろん怒らせてはいけないし、怒ったら手がつけられない、泣き落としなんて効かない相手だと思っていた。それがいつの間にか対等に話をするようになり、怒鳴ったり蹴飛ばすこともなくなり、いつかはわたしがパパにもうやめてと言わしめることさえあった。これはとても悲しいことだ。わたしは、強くて雄弁で、死に物狂いで働き、毎晩倒れるまで酒を飲んで、妻を両親を怒鳴りつける典型的な家父長のパパが好きだったんだと思う。ハイボールをちまちま飲みながら黙って犬を撫でているパパを見るのは寂しい。

 

そして、家父長的父親を失った女は、その先でまた新たな家父長を求めるのである。